天女に奪われた彼

嫌な予感がする。
とてつもなく嫌な予感。
忍務中なのにも関わらず胸を締め付ける嫌な予感で集中できない。
一体なんだ!なんなんだ!


「文次郎大丈夫か?」
「あぁ……問題ない」


これもどれも天女の所為だ。アイツの所為で碌に休めやしない。忍者とて。夜が忍者のゴールデンタイムだったとしても、休息が必要じゃ無いわけではない
それに、どうもここ最近の機嫌が悪い。だからこそ、早く帰ってやらねば……。


「文次郎!」
「っ!」
「馬鹿そっちは崖だ!」


飛んできた苦無を弾き何も考えずバク転をする。仙蔵の声が聞こえた時には既に遅く、俺の体は宙に投げ出されていた


「すまない……


***


ガシャン!
学級委員長委員会の会議室に似合わない音が響く。
空の湯呑みが転んだ拍子に廊下に落ちて割れた音だ。
幸いにも割れたのは自分ので、二人の湯呑みは割れていない。


「先輩お怪我は?」
「大丈夫。躓いただけだから」
「にしても珍しい。何か考え事でも?」


夜も遅いこの時間、可愛い一年生の姿はない。今頃ゆっくりお休み中だろう。
いなくて良かったと正直思う。こんな姿一年生にはみせられない
文次郎達が忍務に行ったぐらい対したこと無いじゃないか。何故にこんなにも落ち着かないのか
危なくない様に、割れた湯呑みを拾う。勘や三郎が手伝うと手を伸ばすが、下手に手を出して怪我をしても困ると手伝いを断る
お茶が入ってなかっただけ幸いなのか。お茶が入ってなかったからこそ割れたのか。そんな事よりも知りたいのは落ち着かぬ理由
時が経つにつれ、不安は広がるばかり
これも全て天女の所為か


「文次郎達になにもなければいいけど」
「先輩が信じなくて誰が潮江先輩達の事を信じるんですか」
「それもそうか。それに我々がすべきことはまた別なこと」
「「天女ですね」」
「その為に集まってもらったんだからな」


割れた湯呑みで切った指から出た血が普段よりも毒々しい。二人に気付かれぬよう指を口に含んで舐め上げれば、いつも以上に鉄の味がした
お願いだ。無事でいてくれ文次郎!


***


「お二人が帰って来たぞ!」
「潮江先輩が立花先輩に担がれている!」


その声を聞いたのは翌朝の授業前。偶々見かけた三年が皆に聞こえる様に叫んだからだ。
朝方天女に言われた暴言なんて忘れることにする
別に、男好きなんて言われたところで傷つきやしないけど


「仙蔵おかえり。文次郎は……」
「崖から落ちた。なんとか応急処置はしたが私は伊作じゃ無いんでな……」
「そっか……文次郎もおかえり。さ!みんな教室に行った行った!伊作を見つけたら急いで医務室に来る様に伝えておくれ!」
すまない……」
「気にするな。仙蔵も悪いね」


人数が少ない六年は、組の半数が忍務に出掛けると別の組で授業を受けることになっている。今日はは組での授業だったのだが、この分だとは組の授業も無くなるだろう。なら、仙蔵の怪我の手当てでもするか
先生に報告しないととも思ったがきっと気付いている。先生たちは俺たちの先生で、学園長の部下なんだから
でも、報告は義務だからと一応矢羽根は飛ばしておく


「失礼します」
「あぁ、数馬くんから話は聞いているよ。恐らく伊作くんも直に来るだろう」
「ありがとうございます。新野先生は文次郎の手当てをお願いしてもいいですか?」
「勿論。立花くん、潮江くんをここに」
「はい」
「仙蔵はこっちだよ」


と、ある程度の救急セットを用意した状態で仙蔵を声をかければ、素直にこちらに来る。仙蔵は俺に横たわる文次郎が見えない様に座る
打掛を脱いだ仙蔵にたっぷりの薬を塗ろうと指につけ、傷口に塗ってやる。染みるのか、その度に一瞬眉を寄せる仙蔵に苦笑いで返す
普段よりも怪我の量が多い気がするのは気のせいか……?


「善法寺伊作です。入ります」
「あぁ、伊作。待ってたよ」
「うん。が仙蔵の手当てをしているんだね。新野先生手伝います」


文次郎の姿をみて一瞬息を飲んだ伊作。そんなにヤバイ状況なのか?
仙蔵が配慮したからなのか、俺はその姿を一回も見ていない


「仙蔵。崖から落ちたと言っていたがどうして」
「珍しく目測を誤ってな。幸いにもそんな高くない崖だったからか、頭は打ったがあの程度の怪我で済んだ様だ」
「そうか……」
「落ちる時……すまないとお前の名を呼んでたぞ」
「あの馬鹿」


一通り塗り終わったので傷が酷いところには包帯を巻いていく。傷は多いが対した怪我じゃない。流石は仙蔵
刀傷が多い。刀でも使ったか。己の得物である宝禄火矢を使わないなんて珍しい


「幸せ者だな。お互いに」
「なにを今更。俺らはあの日から……」
「文次郎くんと仙蔵くんが帰ってきたって本当!?」
「雪姫さん、勝手に入って来られたら困ります!」
「おかえりって言いたかったんだもん……っ!文次郎くん大丈夫なの!?ひどい怪我じゃない。伊作くん手伝うわ」


スパーンッ!と大きな音を経てて障子を開いたのは天女。忍たま全員が自分の事を好いていると思っている馬鹿な女。まだ数人天女に現を抜かしているが、それももう直戻るだろう。早々に天女を追い出したいが、一応は学園が保護した身。学園長の指示がなければ動けない


「何故貴女が此処に?今の時間は小松田さんと事務の仕事では?」
「文次郎くん達が帰ってきたんなら、そんな事している暇なんて無いじゃない」
「雪姫さん。お願いですから出て行ってもらえませんか?文次郎はこの通りひどい怪我です。いつ何が起こるかわからないこの状況で貴女に手伝いを任すわけにはいかない」
「でも……わたし心配なの」


一切天女を見ずに吐き捨てる伊作の姿は珍しい。それ程までに文次郎の怪我が酷く、手を休めている暇など無いということ
残念ながらこの部屋に天女の味方をしてくれる人などいない


「心配だからといって、治療の仕方を知らない天女様が下手に触って悪化したらどうするんですか?」
「なんなの?アンタこそ保健委員でも無いのに仙蔵くんの治療なんかしちゃって、悪化したらどうするの?」
「……残念ながら、人出が足りない時は学級はその補助に入るのが常だ。文句あるのか?」


お前が文次郎の手当ての手伝いをするのと、俺が仙蔵の手当てをすることの違いを天女はわからないだろう
文次郎は大怪我だ。一歩間違えればこの世から居なくなってしまうかもしれないぐらい……。対して仙蔵は普段の実習や忍務で受ける傷ばかり。命に関わる程の怪我じゃない
だから……俺なんかよりも技量の高い新野先生や伊作に任せているのだ。本当は自分の旦那ぐらい自分で治療したいからな……。
新野先生はなにも言わないが、出ていってほしいオーラを醸し出している


「なによ!偉そうにっ!」
「仙蔵終わったぞ」
「あぁ。邪魔にならない様に退散するか」
「元々そのつもりだよ。仙蔵は学園長先生に報告があるだろ?」
「ちょっと!無視しないでよっ!」
「あぁそうだな」
「行くか。新野先生、伊作。文次郎をお願いします」
「最善は尽くします」
「ちょっと引っ張らないでよっ痛い!」


天女の腕を掴み無理やり医務室から退散させる
仙蔵が障子を閉めこちらを一瞬みてその場から立ち去る
おい、後任せたってなんだよ
とりあえず、掴んだ腕を振り天女を医務室の扉から離す
いったっ!と大袈裟に声を上げる天女に眉を寄せる


「いい加減にしろよ」
「それはこっちのセリフよっ!文次郎くんが怪我した理由ってどうせ、アンタの所為でしょ!」
「その証拠は?」
「え?」
「俺が文次郎に怪我を負わせた証拠は?第一俺は昨晩学園から出てない。お前は俺が出て行ったのをみたのか?」
「それは……」
「変な言い掛かりはやめてもらおうか。そんな事よりも……」


と、座り込んでいる天女を上から見下ろし苦無を突きつける
勿論殺すつもりなどない。これは最終警告だ
これ以上学園を掻き回すな。帰る場所があるなら帰れ
積もり積もった怒りやストレスが限界に来た様で溢れ出る
あぁ、これも文次郎が意識不明で戻ってくるから。今まで張り詰めていた糸がプツンと切れた
嫌な予感が的中した。何事も無ければいいけど……本当に。


「最終警告だ。今生かされているのは“学園で保護”しているから故。碌に与えられた仕事を熟せないお前はお荷物だ。早く万人に愛されるなどの考えは捨てることだな……でないと」
「なによ」
「お前のその首掻っ切る」


目障りなんだ。お前の様な女が文次郎に近づくのが
親指を右から左へ首を切る動作をする
その動作に漸く気づいたのか天女は振るい上がる
なにを今更。ずっと前から言っていただろうに
突きつけた苦無を懐にしまい天女を睨みつける
丁度文次郎の治療が終わった様で静かに障子を開ける伊作が目に入る


「中まで声が聞こえていたよ」
「そんな大声だしてないんだけどな。終わったの?」
の声はよく通るから……一応終わったよ。今は静かに寝てる」
「そうか……」
「ねぇ。文次郎くん大丈夫なの?」
なら入ってもいいよ。そばにいたいだろう?」
「ねぇってば!」
「いや、それは……新野先生にご迷惑だろう」
「新野先生が言ってらしたんだよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。天女様、繰り返す様で悪いですが、自分が何処にいるのかを思い出してください」
「先生にはお伝えしておくよ。さ、雪姫さん仕事に戻ってください」


天女の腕を引っ張り無理やり立ち上がらせる伊作の姿を横目に、俺は静かに医務室の障子を開いた


「失礼します」
「あぁ、くんか。ここにおいで。私は先生達に報告してくるから、少しの間席を外すよ」
「はい。先生ありがとうございます」


新野先生が気を利かせて席を外してくださった。
横たわる文次郎の頭には包帯。パッと見える包帯はそれだけなのに、とても痛々しい


「バカもんじ。気を抜きすぎたよ」


返事が返って来ない事はわかりきっている。でも言わずにはいられない
布団から少し出ている手を握りそこに額をピタリとつける
涙が一粒零れた気がしたが気の所為だと何もせずただ手を握る
後遺症も何もなく、意識が戻ります様
どうか、また笑い合えます様
私、……否、は何事もない様無事に文次郎が目覚める事を祈ります


文次郎の目が覚めた時、あんな事を言われるなんて、今のこの状況では誰も想像していなかった