天女に奪われた彼

あれから暫くして新野先生が戻ってきたと同時に鐘がなり一限の終了を知らせた
新野先生に少し恥ずかしい姿を見せてしまったが、そっと微笑んでくれた
取り敢えず、怪我人の手当てとはいえ、一限をサボってしまった訳だから先生に謝りに行こうと文次郎から手を離し立ち上がろうとするが、段々と近づいて来る気配にもう少しとどまろうかと、手は離したまま障子に目を向ける


「大丈夫か!文次郎!!」
「しっ!静かに寝ているよ」
「そうか!悪かったな」
「小平太……ここは医務室だ」
「長次、細かいことは気にするな!」
「新野先生いらっしゃるんだから少しは気にしろ小平太」
「失礼します……外まで聞こえてたぞ小平太」
「全くだ……少しは考えろ」
「まぁまぁ……新野先生。文次郎の具合は如何でしょうか?」
「あの後のことはくんがよく知っているよ。私は少し席を外していてね」
「ご覧の通り、ちっとも目覚めやしない」
「でも、直に目を覚ますと思いますよ」
「「「「「「ありがとうございます」」」」」」


見事に六年全員が医務室に集まった様だ
授業に出ていたのは小平太と長次、留三郎だけの様で仙蔵は学園長に帰還の報告の後、報告書を書いていたらしい。伊作はあの後学園長に報告しに行った様で仙蔵と入れ違いになったようだ。
留三郎まで心配で来るなんて今日は槍の雨でも降るのか?と疑問にも思ったが、所詮二人は似た者同士。良き好敵手がいないのは寂しいのだろう。本当に槍が降ったらどうしてくれようか
ほら、みんなお前の事を心配しているんだ。早く起きていつもの如くギンギンに忍者しておくれ
と、瞼が少し動く
起きたのか……?


「……ん、ぁ?ここは」
「文次郎起きたのか!」
「仙蔵……あ、そうか俺は崖から」
「文次郎にしては馬鹿なことを。大丈夫か?」
「あぁ、すまなかった」
「私に謝るのもいいが、一番に謝らないといけない奴がいるだろう」


と、顔を背けていた俺を強引に文次郎の前に引っ張り出す仙蔵と小平太
お前ら後で覚えていろ!内心で思いつつ文次郎の顔を見れば、眉が寄っている
ドクンッ!と昨晩の事の不安が蘇る
口を開く文次郎に目が釘付けで何も行動が移せない
嫌な予感がする……聞きたくない
聞きたくないっ!


「お前誰だ」
「「「「「「「!!」」」」」」」


その場にいた誰もがその言葉に目を見開く
よくわかっていないのは文次郎だけで、動けない身体に若干の鞭を打って俺を睨んでいる
皆、文次郎と俺を交互に見、首を傾げる
……冗談だろ


「……なんで女が俺たちと同じ忍装束を着てんだ」
「文次郎!本気で言ってんのかっ!」
「お前らこいつの事知ってるのか」
「知っているも何も、六年間同じ釜の飯を食べてきた仲間じゃないか」
「俺はこんな奴知らない!」


ドクンッドクンッ
心臓が煩いぐらいに鳴り響く
昨晩文次郎に貰った湯呑みが割れた
昨晩文次郎に貰った赤い結い紐がダメになっていた
全部文次郎絡みだったから文次郎に何かあったんじゃないかって
そんな事はないって必死に不安を揉み消したのに……そんなのってないよ
馬鹿文次郎


……」
「邪魔者は出ていくよ。どうやら彼にとって俺は邪魔者らしいから」
「そんなのこと無いよ!」
「いいんだよ伊作。新野先生、学園長には俺が」
「文次郎くん意識戻ったの!?」


スパーンッ!と開かれた障子
開いたのは天女様。今この場にいてはいけない存在だ
一瞬で冷たい空間に変わる
どこから情報が漏れたのやら。まだ文次郎が目覚めて数分も経ってないのに…。


「あぁ……雪姫か。心配かけたな」
「文次郎くん」
「おい、文次郎どういうことだ!」
「文ちゃんいくらなんでもそれは……」
「……文次郎、どうしたのだ」
「冗談はよせ、文次郎」


ガシャンと崩れ落ちる何か
薬箱か信頼か
懐から苦無を取り出そうとする手を逆手で阻止し、深呼吸一つ
ここは、医務室。血止めをする場所であって、血を流す場所では無い
幾ら天女様が憎かろうとここで苦無を振り回すのは違う
状況把握は他に任せて退散することにしよう
今この場に俺はいてはいけない


くん。学園長先生には私から報告をするから君は皆に報告をしてきなさい」
「……はい。失礼しました」


相変わらず睨み続ける文次郎
その瞳に色はなく、以前天女に向けられていた表情だ
意味がわからない
涙が出そうになるのを必死に抑える
さっき流したばかりだろう。今は泣く時では無い!
静かに医務室の障子を閉め、歩きだす
行き先は……そうだな、グラウンドかな


じゃないか」
「あ、土井先生、山田先生もおはようございます」
「おはよう」
「先輩!僕たちもいますよ!」
「おやおや、は組そろってお出掛け?」
「はい!」
「そりゃあ、良かった。そんな君たちに朗報さ。文次郎が今し方、目を覚ましたよ」
「本当ですか!」
「勿論」
……?」


何かの違和感に気付いたのか、首を傾げる土井先生。それを気付かないフリをしようとしたが、山田先生に先行っていてくださいと声を掛けた時点で逃げられないと悟ってしまった
気を遣って二人っきりにしてくれた山田先生。正直今の状況でこの気遣いはいらない


何かあったのか」
「なんもないですよ?」
「いや、文次郎が目覚めたというのにお前が伝達係なのは違和感でな」
「学級の俺が目覚めを知らせるのに何か疑問でも……?」
「ただの学級委員長ならな。文次郎の近くにいなくていいのか?」
「っ!いいんですよ。お互いに頭を冷やす時間が必要でしょうから」
「何かあったのだろう?言ってごらん」
「土井先生。は組と同じ尋ね方をしないでください。もう15なんですから」
「私にはそうして欲しいように見えたが?」


笑みを崩さない土井先生に涙が零れ落ちる。グッと堪えていた筈なのに、弱みを見せない様に、最上級生としてしっかりしなくてはいけないのに
あぁ、もう土井先生の所為だ
ぶわりと押しとどめていた感情が露わになる
……止まらない
天女の所為でクタクタの俺の心。気づかれない様にと高い壁を作っていたが、脆く儚く崩れ去る


「……文次郎が“私”の事を忘れました」
「は?」
「他にもないかと仙蔵達が調べていますが、確実に“私”との記憶はすっぱ抜けています」
「待て待て、どういうことだ」
「どうしたも何も、俺の顔を見た時に『お前誰だ』って言ったんですよ?いくらなんでも冗談でそんな事言う筈ないじゃないですかぁ。況してや天女の事を覚えていたら誰だって悔しいですよ……っ」
……」
「土井先生!……後は任せてもらってもいいですか?」
「留三郎か……すまないの事頼むよ」


留三郎に後ろから抱きつかれ、頭を撫でられる
土井先生は留三郎の姿に少し安心し、その場を去って行く
は組で出かける予定だったから、合流に行ったのだろう
去り際に頭を撫でて静かな声で謝ってくれた
別に土井先生が悪いわけじゃないのに……


「とりあえず部屋いくぞ。緊急事態だから六年はこの後の授業はなくなった」
「天女は?」
「医務室からは追い出した。文次郎は新野先生がみている」
「そっか」


自分の部屋につけば、文次郎以外の六年が既にいた
……こう言うのもなんだが、一応女の部屋なんだが
毎度の事だからもう何も言わない。むしろ異端は俺の方だから


「おかえり。
「あぁ……。どうだった?」
「どうやら、抜けているのはの事だけみたい」
「俺の事全てってことだよな?」
「あぁ。お前の存在自体が抜けている」
「そう……俺だけ」
「なんで、だけなんだ。どうせなら全員の事を忘れていればいいものを」


そう……俺だけ。
どう捉えるべきか?俺は文次郎にとってその程度の存在だったってことなのか?
それとも……想うが故?なんて自惚れか


「……よく、耐えた」
「うん。あの時よく耐えたね」
「大丈夫。今この場に文次郎はいないが、わたし達がいるぞ!」
「……あぁ」


隣に座る留三郎に頭を撫でられ、逆隣の仙蔵には背中を摩られ、目の前の小平太には心配するな!と笑われ、その隣の長次は相変わらず無表情だけど優しさに溢れ、伊作は懐から紙に包まれた薬を渡された。気を紛らわせる薬だと
みんなの優しさに涙が止まらない
今日だけで一生分の涙を流した気がする
いや……それは言い過ぎか


「文次郎は……思い出してくれるよな?」
「大丈夫じゃないか?あの時の事をちゃんと“女”と見抜いていたんだから」


初対面で俺が女であることを見抜くのは難しいらしく、今まで初対面で性別を当てたのは数えられるぐらいしかいない
今や周知の事実だが、入学してからつい最近まで先生方と幼馴染の文次郎以外知らなかった
一度女と認知してしまえば、身丈が小さい、足音の軽さなど、言われてみれば……と男女の違いに気付かされるらしい
そんな俺を文次郎が一発で女と見抜いた。それ即ち思い出す余地があるということ
なんて考えは安易なのかもな


とりあえず、今考えなければいけないのは別のこと


「俺の事よりも、今後どうするべきか話さなければならないんじゃないか?」
「そうなんだけど、今のをほっとけないよ」
「俺は大丈夫。皆がいてくれるんだろ?耐えられるよ」
「本当かー?」
「本当だって。それよりも、俺は下級生達が心配。クラスは俺と同じ。つまり文次郎にとって知らない奴が教室にいることになる。きっと常日頃からピリピリすると思うぞ」
「……そうだな。下級生に知らせるべきだろうな現場を」
「何も知らない下級生はきっと文次郎に尋ねるだろうから」
「天女は……どうするのだ」
「何かしでかしそうだな!」
「取りあえず、学級で見張らせるよ。動き回る体育、用具。それから保健も頼むよ」
「おう!」「あぁ!」「うん!」
「大枠さえ決まればなんとかなるだろう。学園長に知らせに行くか」
「私が行こう」
「仙蔵すまないね」


腰を上げて部屋から出て行ったのは仙蔵
仙蔵が率先して報告しに行くなんて珍しい
ま、あの状況を六年全員がみて六年全員でこの作戦を決めた訳だから報告は誰でもいい訳だから、仙蔵が行くのになんら問題はない
と気付く。あぁメインで報告に行っていたのは文次郎だったと
やはり、誰一人欠けては行けないんだな…

あぁ、願わくは
苦しむのは私だけで有りますよう……
どうぞ、下級生には火の粉が上がりませんよう……